新巨人の星

「新・巨人の星」完結に際して 梶原一
「おそらくは読者諸賢の多くは意外とされようが、この回で「新・巨人の星」は完結させて頂くこととなった。もっとも一度は数年前に完結した「巨人の星」が本誌編集部の熱意にほだされ、それこそ不死鳥のように蘇ったのであり、私も作画担当の川崎のぼる君も新たなる情熱を傾け取り組んできた。しかし、今回の完結の理由は、そのよきコンビ川崎君のよからぬ健康状態である。彼は元来が蒲柳の質であるのを長年のコンビとして知る立場であってみれば、ふたたびその才の開花を念ずるためにも詮方ない。
 それにしても作品上の問題、ナゾがまだ残りすぎる。一例が左門豊作によって看破された「蜃気楼の魔球」の何故ボールが三つに見えるのかの解明は?また星飛雄馬の不屈の根性が生み出す第二の魔球は? 
 ところが読者にも私にも幸運なことに、きたる四月七日(土)からNTV系で「新・巨人の星II」が放映される。私は読者への責任上からも、わが飛雄馬への愛情からも、この製作スタッフに積極的に参加する。つまり今後のストーリー展開に予定していた創作ノートを全部提供する、と約した。 飛雄馬は死なない。消えない。どだい長島巨人が広岡ヤクルトにしてやられ、今季また前途に楽観を許されぬ段階で死んで、消えてたまるか! 彼はいきいきとブラウン管で躍動するであろう。その多情多感の青春を泣きもし、笑いもしよう。そして、読者の尻切れトンボへの不満を万全に解消してくれるはずだ。TV版「新・巨人の星II」に、ご支援をお願いするとともに、もう一つ、ここでお約束させて頂く。それは_
 ごく近いうちに再び本誌上に、まったく構想を新たにした巨人軍劇画を執筆する予定でいる。この新作が万一「巨人の星」より見劣りする作品になりそうなら私は筆を執らぬ。敢えてチャレンジするのは、このところマンネリ停滞ぎみの野球劇画に新風を吹き込む私なりの自信あってこそだ。 できれば新作の中にも飛雄馬に登場して貰いたいなど、現在ひそかに想を練りつつある。乞う、ご期待!」
(週刊読売 1979.4/15号に掲載)


愛と誠
「愛と誠」のファイト 梶原一
「ぼくはいわゆる「スポ根作家」なる称号をマスコミから与えられたごとく、主としてスポーツの分野を舞台にとって、まさに「ファイト」そのものをテーマとして描いてきた。『巨人の星』であり『あしたのジョー』である。 ではスポーツ物ではない最近作の『愛と誠』にはファイトは描かれていないか? そう問われれば、どっこいちゃんと描いてあるのであって、要はファイトなるものの考えよう、解釈の方法なのだ。「愛は平和ではない。 愛は戦いである」と、作品の冒頭にあるように、何も野球で投げたり打ったり、ボクシングで血みどろになってなぐりあうだけが戦いではない。闘志にあらず。そもそも『愛と誠』は、この発想から生まれた。静かで、ちっとも攻撃的ではなく、じっと耐えしのぶファイトもありうる。愛するという名の戦い、忍耐という名の戦い、あるいは人間本能の自己主張とは逆の自己犠牲という名の戦いは、その過酷さ、そのきびしさにおいて、いかなる強大な外敵との戦いにもおとりはしない。いま『愛と誠』の早乙女愛は、この戦いを静かなる火花を散らして戦っている。けっして『巨人の星』の星飛雄馬にも、『あしたのジョー』の矢吹丈にも負けていない不屈のファイトをもって…。 むしろ、ぼくは近ごろひしひし思うのだが、真のファイトとは静かなものではないか? 表面にギラギラギンに表されているうちはニセモノらしい。そういう飛雄馬もジョーも、物語が佳境にさしかかるにしたがい、ぎゃくに彼らの動きは、すみかえったように静まってきた。極度に回転するコマが、すみかえるように。これ見よがしに煙をあげている火は、まだ猛火ではない。完全燃焼する炎は高熱だが静かだ。そのように、ぼくは早乙女愛に大賀誠を愛させてみたい、と『愛と誠』を構想した。 だから、役名そのままを芸名にした映画の早乙女愛クン、またテレビで演ずる池上季美子クンらに、「愛の役づくりの秘訣を教えてください」と、質問されるつど、以上のべたとおりのことを、ぼくは答えてあげた。 「自分を完全燃焼している静かな炎だと思いたまえ。その炎が早乙女愛だよ」そして、それはまた、ぼく自身が長年の作品活動をつうじてさぐってきた、さまざまのファイトのかたちの移り変わりであり、ようやくとらえた真理でもあるようだ。」
(「女学生の友」1974.10月号に掲載)

愛よ…誠は死なず! 梶原一騎
「「愛と誠」のラストシーンは、あれほど、この作品を熱愛してくれ、ふたりの幸福を心から希ってくれた読者諸君にとって、あるいは残酷だったかもしれない。作者側としても三年余も心血を傾けてきた主人公たちには、きょうだい同然に情が移ってしまうから、いわゆるハッピー・エンドで祝福してやりたいのもまた本音だ。しかし-である。いかなる愛情も、誠実も、かならずしも酬われ実を結ぶとはかぎらぬ現実を、そして、それゆえに一層の愛と誠の美しさを、私は「愛と誠」で追求したかった。さらには男と女の愛のかたちの宿命的なちがいを-だから、いかに真摯に愛しあえども両者の孤独を。これらについて、いまさら、くだくだしく説明しようとは思わぬ。作者は作品をとおして読者に理解され、共鳴されるか、もしくは拒否、反発されるかの二つに一つしかないのだから…。 ただ、筆をおくにあたり私は信ずる。すべてはこれからはじまる、と未来を夢みて歓喜する早乙女愛の腕の中で、すべての血を流しつくして冷たくなっていった太賀誠は、しかし、永遠に死なず-と! 長い間、ご支持をありがとう。 -’76.8.25記」 (週刊少年マガジン1976.40号に掲載)

「愛と誠」に思いを馳せて 高森篤子
「(中略)この「愛と誠」は、私が主人の許を去った直後の作品です。『お前と別れたから書けるんだ。お前だけは俺の側から離れない、と何故か思っていたんだ、女を見くびっていたんだなぁ』と聞かされ時の切ない心は、この作品がこの世に生き続ける限り、私の内で永遠に消えることはないでしょう。後に復縁となる訳ですが、その当時、主人との生活に自らピリオドを告げたにもかかわらず、未来に夢など抱けない暗闇のような精神状態でした。そんな折の主人の言葉だったのです。」 (梶原一騎直筆原稿集「愛と誠」より)

「わたしはこの作品の中に、劇画の可能性そのもの、そして、青春の愛の極限までを追求したいと思っている」
(週刊少年マガジン1973.51号掲載・52号予告より)

第6回講談社出版文化賞受賞のことば 梶原一騎
「まず、うちあけ話をすると 講談社から、この本年度の出版文化賞まんが部門の候補作を推薦してほしい、との往復ハガキが私の許にまいこんだとき、ためらうことなく私は大きな文字で、そこに「愛と誠」と書きこんだ。これには、コンビのながやす巧くんのすばらしい名画、それだけでも賞に該当するとの意味もあったが、むろん同時に私自身の原作者としての「自信」もこめてのこと。なkなか、おいそれとはこういう「自信作」は書けるものではないが、こと「愛と誠」他一、二作については、だれはばからず胸を張れる。もっとも、これも審査員諸氏に認められなくては、文字どおり、ひとりよがりになりさがるところだったが、さいわい自他ともに認めるの結果となり、うれしいかぎりだ。そして「巨人の星」、「あしたのジョー」と、つねに力かぎりの冒険をさせてくれた少年マガジン編集部に感謝してやまない。」 (週刊少年マガジン1975.19号に掲載)

火乃家の兄弟

原作者の言葉 梶原一
「諸君の若さ、諸君の青春は、なにも突然、この日本に出現したわけではない。過去、おなじ血のながれた父や母、また兄や姉の若き日が、青春があったればこそ、現代があり諸君がいる。私は『青春山脈・火乃家の兄弟』で、この熱い血と涙でつづられてきた青春の歴史を、いわば父母の国・日本の青春山脈のつらなりを、えがきぬいてみたいと思う。これ以上は言わぬ。作品がすべてを語り歌うであろう。」
(週刊少年マガジン1977.14号 新連載予告より)


天下一大物伝
「無双大介…私が出会った最も魅力的な主人公である。その大介が、大島君のペンによって生命を得た。恐るべきエネルギーと行動力をみごとに表現してくれた。ヒット作をつくるのに王道はない。ただ、われわれ二人の情熱を読者諸君にぶつけていくのみである。二人とも自信満々、諸君の反響が今から楽しみである。」(週刊少年サンデー1975.28号 新連載予告より)

拳鬼奔る

「私は自分でも空手(極真会四段)をやり、また劇画作家としても本誌に連載した「カラテ地獄変」はじめ空手ものを多作してきたが、この辺で一つ空手の発祥及び、その波乱の歴史を描いてみたいと発念した。古代中国の少林寺に発生した空手が琉球(沖縄)を経て江戸期の日本に伝わる過程を正確な考証に基づき、同時に若き熱血の一拳士の奔放な大暴れに託した壮大なロマンともしたい。いわゆるチャンバラの時代劇の世界に空手をブチ込む新味に、ご期待こう。」(週刊サンケイ1977.4/21号 新連載予告より)


人間兇器

人間兇器 再開にあたって
「最初に読者諸兄はじめ編集部に対し幾重にも詫びねばならない。周知のごとく個人的な理由の短慮から暴力事件を起こし、あまつさえこれも日頃の不摂生から病魔にとり憑かれ、ゆえに心ならずも一年半の長期に渡り「人間兇器」を中断したことを。かつて私は本編に主人公・美影義人のまだ少年期のワルぶりを描いた際、「これは作者自身の同じ時期がモデルである」と、告白したが何のことはない、四十の不惑をこえてなお美影義人の軌跡をなぞってしまう結果になった。就中、美影も己を育成してくれた格闘技界でトラブルを連続させてきたが、また私も誤伝の要素大なりとはいえ、A・ザ・ブッチャーやT・マスクの「権利」問題だのA・猪木「監禁」事件だの惹起したのは、まことに汗顔の至りである。にも関わらず寛大なる編集部は連載再開のチャンスを提供してくれ、読者からの要望も私の机上に山積しているので、ともかく尻切れトンボでない完結の責を全うさせて頂くことにした。あえて最終章は「野獣死すべし」と命題した。私の裡なる若気の至りの「野獣」も。 ’84 秋深まる日に 梶原一騎 」
(週刊漫画ゴラク1984.11/23号 連載再開予告より)

完結の辞
「ついに「人間兇器」を完結させ、まこと感慨無量のものがある。 さまざまの意味において、この作品は私の劇画原作史上をつうじても画期的かつ波乱の産物であった。まず主人公のキャラクターとして、美影義人は徹頭徹尾、利己主義と野望の化身であり、また従来の劇画のカッコいいヒーロー像からはずれていた。同じく私が「漫画ゴラク」誌上に発表した「斬殺者」のダーティ・ヒーロー無門鬼千代さえ顔色ないほど、この点では徹底していた。 が、しかし、美影義人は作者である私自身の裡にも棲むし、読者諸兄すべての魂の暗がりにもひそむと思う。悪あってこそ善、醜あってこそ美が存在するのだ。美影のそれなりに必死の生きざまをリアルに描けば描くほど、けっしてそれが悪の讃歌とはなり得ぬ逆説・いわば釈迦の掌の上を駆けめぐる孫悟空なのである。 私の不徳が招いた事件、不摂生がもたらした大病による連載途中の中断については、くり返して詫びたい。にも関わらずの熱烈なる読者と編集部の支援がなかったら、この作品の完結もなかった。告白すれば事件と大病は私を大きく成長させた。否、すくなくも謙虚になった。その証拠に結末の部分が、当初の構想と大きく異った。当初は美影をパーフェクトな「兇器」となりとげさせる構想だったが……。名月や 人みな胸に兇器ひむ(一騎)≠オかれども同時に、かぎりなき仏心もひめるのが人間なり、との発見が投影している。 末筆乍ら中野喜雄氏の長年の熱筆に改めて感謝したい。’85 新春。 梶原一騎 」
(ゴラクコミックス23巻より)


おかあさん

インタビュアー:こんど、『おかあさん』の連載がはじまりますが、これは?
梶原一騎:「うーん、『巨人の星』では、むかしの父親像を、描きたかったのだが、今回は郷愁の母親像をね。」
インタビュアー:先生のおかあさんがモデルですか?
梶原一騎:「そうねえ、おれはガキの頃、手のつけられない悪童でね。おふくろの日課は、いつも学校からの呼びだしに出かけて、頭をさげてくること。」
(週刊少年キング1978.36号 「今週の主役/梶原一騎の世界」より一部抜粋)

インタビュアー:“少年キング”の「おかあさん」あたりはどうなんでしょうか、梶原さんの理想像なんでしょうか、
梶原一騎:「それは「巨人の星」でアンチ・マイホームパパを書いたようにね、今はいない幻のおかあさんだよね。だから、書いてて張りがあるんだな。」

(まんが専門誌 ぱふ1980年1.2合併号「梶原一騎小特集」より一部抜粋)


哀愁荒野

インタビュアー:作品の話を続けたいんですが、「哀愁荒野」、これは梶原さんにしては珍しく湿っぽい作品ですが。
梶原一騎:「あれは下町が舞台になっててね、ああいうとこ舞台にするとどうしても「翔んだカップル」みたいに乾いたもんにならないの。軽妙なものが多いから、その逆の話を書いてやれって思っちゃうんだなぁ。「巨人の星」書いた時もすいうとこがあったし。」

(まんが専門誌 ぱふ1980年1.2合併号「梶原一騎小特集」より一部抜粋)


空手戦争

インタビュアー:それから「カラテ戦争」
梶原一騎:「あれは映画のシナリオとして書いていたものが長く続いちゃったんで。」

(まんが専門誌 ぱふ1980年1.2合併号「梶原一騎小特集」より一部抜粋)


猪突猛進記者

まえがき
「この作品は「公明新聞」の日曜版に、(猪突猛進記者)として一年間にわたって連載したものである。コンビを組んだ荘司としお君は、かつて私の好きな作品「夕やけ番長」でもパートナーであり、よく呼吸の合った人。それだけに劇画になりやすいようで実はなりにくいブン屋さんの世界を熱血とペーソスあふれる独自のタッチでこなしてくれて、やり甲斐のある仕事になった。夏目漱石の「坊ちゃん」を新聞社という機構にほうりこんだような味が狙いだったが、果してどうか。さいわい発表舞台が新聞だったので、いまは同紙の政治部で活躍する気鋭のY記者が担当者として、さまざまにアドバイスしてくれたため、主人公の記者生活そのものは、かなり本格的に描けたつもりだ。私の異色作として読者の高評を乞う。」

(サンケイ新聞出版局刊/サンケイコミックスに収録)


紅の挑戦者

緊急予告!第2弾 海外取材第一報
「こちら(バンコック)は猛烈な暑さ。流れ出る汗をふきふきの取材だが、ふたり共、意気軒高たるもの。ルンピニ・スタジアムで七試合、本場のタイ式ボクシングを見た。さすが本場!と舌をまくような美技、秘技の応酬に酔う。観客のエキサイトぶりもきわめつけだ。ホテルに帰ってからも、両者興奮して寝つけず、気のたかぶるままに、朝方まで激論をたたかわす。格闘劇画の決定版として必ずや読者の期待にこたえうる!と確信し、意を強くしている。タイトルは「紅の挑戦者」と決定。では37号で…バンコックにて高森朝雄 中城健」
(週刊少年マガジン1973.35号掲載) ※管理人注:画担当の中城氏との連名だが文章的に梶原先生のものと判断してアップしています。

「愛読者にいう“まだまだ序の口だ。いまからおもしろがっていると、ショック死しかねないぞ”」
(週刊少年マガジン1973.51号掲載・52号予告より)


空手バカ一代

「わが師でもある大山倍達先生の怒濤の半生を、できるだけ忠実に、たいせつに再現したいとねがうのみ。」
(週刊少年マガジン1973.51号掲載・52号予告より)


陽気蝮 乱世の梟雄 斎藤道三伝

大河ドラマへの挑戦劇画 梶原一騎
「この『陽気蝮』の執筆動機はNHKテレビが例の大河ドラマと称する番組で「国盗り物語」を流していたゆえの世をあげての斉藤道三ブームに便乗してではない。これを掲載した「現代」はそういう性格の雑誌ではない。お茶の間の健全視聴者とやらに広く浅くサービスせねばならぬNHK大河ドラマの性格上、変に道三が「弁護」されている扱いに反発してである。あえてテレビと併行し、ありのままの道三像を描いてみたかった。但し、いわゆる極悪人という意味ではない。人間には真の善人もいないかわり、極悪人なんてのも存在せぬ。強烈無比に自我に忠実であった男の生きざま、エネルギーを描ければよし、と思った。そのため。かなり資料蒐集にも労力を払った。とまれ、こうした姿勢がマスコミの梟雄たる劇画に必要なのではあるまいか。」
(講談社刊単行本より)


花も嵐も
「十年間ねりにねったテーマだ!男の魅力をあますところなく追求する!川崎先生との呼吸もピッタリ!必ず’75年最高の力作になると確信」
(週刊少年ジャンプ1975.3/4号より)

「白鳥純也ーその名の通り、海の青、空の青にも染まず、純粋に生きる少年である。この乱れきった現代を、その純粋な心と人間性豊かな精神で、どこまで生きぬいていけるか!?そんな生き方が、混濁とした現代の中で、どこまで可能かどうか!?それに挑戦するのが、白鳥純也の戦いである。この物語において、わたくしが今まで書いてきた少年漫画の主人公の生き方を、真向から、現代にぶっつけてみたいのである」

(週刊少年ジャンプ1975.8号より)

どあほう一念!!400勝
「最後のサムライ 梶原一騎 
 昭和元禄、ぬるま湯ドップリの天下太平の世、唯一の生々しい男の闘争ドラマを展開してくれるはずのプロ・スポーツ界にすら、強烈なドラマの要素が稀薄になってきた。サムライ不在になってきた。サラリーマン選手が、グラウンドでも、せっせと合理的に稼いでいる。金田正一は、最後のサムライであり、己れの血と汗でしぼってドラマを描いた男であろう。コケの一念めいた要素が欠けると、いかに技能優秀な選手であれ、もはやファンは其処に人生戦場の縮図を見出せない。本編は偉大なるどアホウ金田正一への衷心からなる挽歌である。菅原卓也氏の熱筆の協力で完成できた。もう金田はいない、僅かに金田時代の余韻のようにONあるのみ、寂しい…噫!」

(日本文芸社刊 漫画ゴラクコミックス(11)より)

一騎名勝負劇場

「勝負に妄執した人間 梶原一騎
 『人生は勝負なり』言い古された言葉だが、名言である。およそ人が生きてゆく上で、勝負でないものは何一つない。博愛無私を説く宗教にすら、ある宗教が他宗にまさるための戦い、また教義を踏み外さぬための戦いがつきまとう。恋愛しかり。いかにロマンチックに言いくるめようとしても、これなどは男と女が丁々発止と火花を散らす端的な戦いだ。名勝負物語なるジャンルは、だから小説、映画、TV、劇画あらゆる表現形式において欠くべからざるものであろう。その名勝負物語に、私なりの戯作者としての発想、新解釈、裁断をくわえて、あえて物語でなく「劇場」と題してみた諸作が、ここに一冊にまとめられた。前・後編のみで起・承・転・結をつけなければならぬ制限上、やや舌足らずになったフシもないではないが、楽しくやれた仕事ではあった。勝敗の二字に妄執した人間たちの哀しさ、凄さ、あるいは美しさを、些かなりとも読者諸氏に伝える目的を果たせたなら喜びである。末尾ながら、それぞれの画風で協力してくれた各編の劇画家諸兄にも、お礼を申し上げたい。
 江戸中でひとり淋しい勝相撲(吉川英治)」

(日本文芸社刊 漫画ゴラクコミックス(42)より)





inserted by FC2 system